貧乏ゆすりが脱糞扱いされる現代日本
貧乏ゆすりというものは、その悪意的命名から見ても社会的地位がとても低い。人々は貧乏ゆすりを卑しい行為だと認識している。なぜなのか?貧乏ゆすりで机が揺れたりして実害がある場合なら分かるが、ただ貧乏ゆすりをしているのを見るだけで不快になるという感情は、僕には理解できない。
人に食べ物の好き嫌いがあるように、何を不快に感じるかも人それぞれなので、この差異を埋める必要はない、と個人的には考えている。しかし、貧乏ゆすりが嫌いな人達はそう考えていないのが問題だ。彼らは「貧乏ゆすりは行儀が悪いものだからやめるべきだ」、という理屈というよりかは感情論に近い考えで、僕から貧乏ゆすりを奪う。
そう、僕は貧乏ゆすりが好きなのだ。ずっとしたい。めっちゃ気持ちいい、あれ。自分の肉体の一部であるはずの足が、己の意識から解放されて、規則的かつ永続的に刻み続ける一定のリズム。ただ足が動いているだけなのに感じる謎のエクスタシィ。それでいて手軽かつノーリスク。酒や性行為、ドラッグなどは快感を得られる分、手間と危険が潜んでいる。でも貧乏ゆすりは、金はかからないし、脳も壊れないし、望まぬ妊娠もないし、賢者タイムで死にたくなることもない。そんな超安全合法ドラッグを縛るのは法ではなく、無遠慮で浅薄な他人の常識。
先日、気心が知れた友人と飯を食べていると、突然ピシャリと言われた。
「貧乏ゆすり。」
「ごめん、貧乏ゆすり気になるわ」でもなく、「貧乏ゆすり、やめてくれへん?」でもない。貧乏ゆすりという体言オンリーだ。その言葉の後ろには、大多数の人が貧乏ゆすりを嫌いだという理論に後ろ盾された「やめろ」という文言が隠れていることは言うまでもない。
僕はそのあまりに横暴な咎められ方に、自分は野糞レベルのことをしてるのだろうか、と錯覚した。
「野糞をするのはダメだろ?野糞、やめろ。ノグソ、ダメ、絶対。」
そう言われているような気がしたのだ。そうか、野糞か、貧乏ゆすりは野糞なのか。こいつらにとってはそうなのか。と、不思議と冷静になった。
でもだからこそ、そこで気づいてしまった。多くの人が「貧乏ゆすりは卑しい行為だからやめるべきだ」と考えているのと同じく、僕もまた「野糞は卑しい行為だからやめるべきだ」と考えていたのだ。そしておそらく自分の前で、例えば父親が、野糞を始めたら非難するだろう。
「野糞。」
などと、冷静にかっこつけて言う暇もなく、激しく非難してしまうだろう。そう、父親にとって野糞は卑しいものではないかもしれないのに。野糞は父親にとって、快感を得る手段なのかもしれないのに。ごめんなさい、お父さん。ごめんなさい、野糞をする人達。
これからは野糞をしている人を見かけたら「存分に楽しんで下さいね」と言おうと思う。